
2025年、最低賃金が全国平均で1,000円の大台を超えました。 経営の現場からは「人件費が重い」「これ以上は耐えられない」という悲鳴にも似た声が聞こえてきます。しかし、この変化は本当に、避けることのできない「災い」なのでしょうか。
この度、日本実業出版社が発行する経営専門誌『企業実務』2025年12月号にて、「最低賃金1,000円時代の到来―中小企業が直面する課題と処方箋」というテーマで記事を執筆させていただきました。
本ページでは、誌面で解説した「賃金計算の落とし穴」や「月給制に潜むリスク」といった実務的な重要ポイントを再整理するとともに、誌面の制約上書ききれなかった“経営戦略としての賃金設計”について、診断士の視点からさらに深く掘り下げてお届けします。
単なる法令順守の解説ではありません。 賃上げという変化を「守りのコスト増」で終わらせるのか、それとも「攻めの構造改革」へのチャンスに変えるのか。その分かれ道となる視点を整理しました。
導入|この記事を書いた経緯
なぜ「最低賃金」の記事を書くことになったのか
今回、「最低賃金1,000円時代」をテーマにした記事を執筆することになったのは、編集部の方からお声がけをいただいたことがきっかけでした。
最低賃金が全国一律で1,000円を超えるという状況は、ニュースとしては大きく報じられていますが、今回記事のポイントとなったのは表に出にくい“現場の実務への影響”でした。
実際、ここ数年の最低賃金の引き上げはスピードが速く、特に中小企業や労働集約型の業種では、静かに、しかし確実に歪みが生じ始めています。
「時給を上げれば済む話」では片づけられない違和感が、現場のあちこちに溜まっている。
編集部は、その点に着目されていました。
もっとも、雑誌の性格上、切り口は人事実務寄りになります。
読者の多くは人事・労務の実務担当者であり、紙面の役割は、まず「何が起きているのか」「どこに注意すべきか」を具体的に伝えることです。
そのため記事では、最低賃金の算定ルールや、月給制・固定残業代に潜むリスクなど、実務的な整理を中心に構成しました。
一方で、執筆を進める中で、どうしても拭えなかった感覚があります。
それは、この問題の本質が、単なる賃上げ対応ではないという点です。
最低賃金の引き上げによって表面化しているのは、給与の金額そのものではなく、
- 賃金制度がどう設計されているのか
- 人件費と生産性がどう結びついているのか
- 時間の使われ方が、経営として成立しているのか
といった、より構造的な問題です。
つまりこれは、人事のテクニックや法令対応の話にとどまらず、経営の設計そのものが問われているテーマだと感じていました。
紙面では、人事実務としての整理を優先しましたが、その裏側には、経営全体の構造に関わる論点が確かに存在しています。
本ページでは、そうした背景を踏まえつつ、掲載記事で扱った内容を起点にしながら、
- 「なぜ最低賃金の話が、経営の話につながるのか」
- 「診断士として、このテーマをどう見ているのか」
という点を、もう一段深い視点から整理していきたいと思います。
これは制度解説の延長ではありません。
現場で起きている違和感から始まった話であり、経営の構造を見直すための入り口の話です。
第1部|紙面で伝えたこと(要約・再整理)
最低賃金1,000円時代に、現場で起きている現実
最低賃金が時給1,000円を超えるという状況は、単なる節目ではありません。
ここ数年の引き上げペースは過去に例がなく、わずか数年前まで800円台だった地域でも、短期間で大きな水準変更が起きています。
しかも政府は、今後も一定の引き上げを継続する方針を示しており、この流れが一時的なものではないことは明らかです。
この変化が真っ先に影響するのが、労働集約型の産業です。
サービス業、小売業、飲食業などでは、人件費がそのまま経営を直撃します。
製造業においても、「取引単価は据え置きのまま、賃金だけが上がる」という構図が広がり、現場ではじわじわと負担感が増しています。
さらに見落とされがちなのが、正社員であっても最低賃金割れが起こり得るという点です。
最低賃金の比較対象となるのは、総支給額ではありません。
通勤手当や残業代、家族手当などは算定に含められず、「基本給を中心とした限られた項目」を労働時間で割って判断されます。
そのため、月給制であっても、計算方法次第では最低賃金を下回るケースが生じます。
本人も会社も「問題はない」と思っていた給与が、制度上は違反に該当してしまう――
こうしたズレが、すでに現場で起き始めています。
つまり、最低賃金1,000円時代において企業が直面しているのは、
「賃金を上げるかどうか」という単純な選択ではありません。
総支給額と、最低賃金の算定基準との間にあるギャップ、
この構造的な問題が、多くの企業に共通する現実として浮かび上がっています。
ここまでが、紙面でお伝えした事実関係です。
最低賃金の上昇スピード、その影響の広がり、そして制度上のズレ。
これらは、特定の企業だけでなく、多くの中小企業がすでに直面している現実だと言えるでしょう。
なぜ月給制でも最低賃金割れが起きるのか
最低賃金の話になると、
「うちは月給制だから関係ない」
「アルバイトの話でしょう」
と受け止められることが少なくありません。
しかし、実務の現場では、この認識こそがリスクの出発点になります。
理由は単純で、最低賃金の判断基準と、給与の支給総額が一致していないからです。
最低賃金の比較に使えるのは、すべての支給項目ではありません。
制度上、算定に含められるのは、主に「基本給」「職務手当」「役付手当」など、恒常的に支払われる賃金に限られます。
一方で、通勤手当、家族手当、精皆勤手当、時間外手当、休日手当、賞与などは、原則として最低賃金の計算から除外されます。
つまり、総支給額が高く見えていても、
算定対象となる金額を労働時間で割った結果、最低賃金を下回る
という事態が起こり得るのです。
特に注意が必要なのが、固定残業代を含む給与体系です。
固定残業代は、あくまで時間外労働に対する対価であり、最低賃金の算定には含められません。
そのため、残業が少ない月や、実働時間との乖離が大きい場合には、実質的な時間単価が想定以上に下がってしまいます。
また、出来高制や歩合給を採用している業種でも、同様のリスクがあります。
売上が落ち込む月には出来高部分が減少し、結果として最低賃金割れに陥るケースが実際に確認されています。
本人の努力不足でも、会社の意図でもなく、制度の仕組みそのものが原因となる点が特徴です。
こうした最低賃金割れが確認された場合、行政からの是正勧告や、未払い賃金の支払い命令が出ることも珍しくありません。
「知らなかった」「悪意はなかった」という理由は通用せず、あくまで制度に基づいて判断されます。
ここで重要なのは、最低賃金違反が、
コスト削減を狙った結果ではなく、善意の給与設計の中で起きている
という現実です。
制度を正しく理解していなければ、
「社員のためを思って設計した給与」が、結果として違反になってしまう。
最低賃金1,000円時代とは、そうしたリスクが顕在化する時代でもあります。
だからこそ、この問題は個別の賃上げ対応ではなく、
給与制度全体をどう設計しているかという視点から捉え直す必要があります。
数値で見ると、何が問題なのか
最低賃金の問題は、制度や言葉だけで説明しても、なかなか実感が湧きにくいものです。
そこで紙面では、具体的な数値を使いながら、どこにリスクが潜んでいるのかを整理しました。
ここでも、その考え方を簡潔に振り返ってみます。
たとえば、月給制の社員であっても、最低賃金との比較対象になるのは
「基本給+最低賃金算定に含められる手当」に限られます。
通勤手当や固定残業代がどれだけ多く支給されていても、算定上は評価されません。
この前提に立つと、同じ総支給額でも、賃金構成によって時間単価は大きく変わります。
たとえば、
- 基本給が低めで、固定残業代や各種手当の比率が高い給与
- 基本給の割合が高く、手当構成がシンプルな給与
この2つでは、総額が同じでも、最低賃金に対する「耐性」はまったく異なります。
シミュレーションで示したように、
- 賞与の一部を基本給に組み替える
- 固定残業代の一部を基本給へ振り替える
- 職務やスキルに応じた手当を設ける
といった対応を行うことで、総支給額を大きく増やさなくても、
最低賃金引上げに耐えられる構造を作ることは可能です。
この点だけを見ると、
「それなら、構成を調整すれば解決する」
と感じるかもしれません。
実際、短期的な対応としては、こうした組み替えは有効ですし、実務的にも導入しやすい方法です。
ただし、ここには一つ、見落としてはいけない前提があります。
それは、これらの対応が、あくまで対症療法に近いという点です。
最低賃金は、今後も段階的に引き上げられる可能性が高く、
そのたびに「どこを組み替えるか」を考え続けるのは、現場にとって大きな負担になります。
賃金構成だけを調整しても、
- 業務量
- 働き方
- 生産性
が変わらなければ、いずれ再び同じ問題に直面します。
ここまで数値で整理すると、最低賃金対応の本質が見えてきます。
問題は「いくら払っているか」ではなく、
その賃金が、どのような構造で支払われ、どのように回収されているかです。
この時点で、読者の理解はいったん完成します。
最低賃金割れは、偶然起きるものではなく、給与制度の設計と密接につながっている。
そして、数値を見れば、その関係は誰にでも確認できる――
ここまでが、紙面でお伝えした実務的な整理です。
誌面での解説をより詳しく確認したい方へ
ここまで、掲載記事の要点を再構成して受伝えしてきましたが、実際の誌面では、より実務担当者向けの具体的なチェックポイントや算定の注意点を詳細に解説しています。
日本実業出版社様により、本記事の「Web抜粋版(サンプルビューワー)」が公開されています。実際の紙面の雰囲気や、より細かな実務上の論点を確認されたい方は、ぜひこちらもあわせてご覧ください。
さて、ここからは誌面の「実務」という枠を超えて、この問題を経営戦略の観点からどう捉えるべきか、診断士としての深い視点をお伝えします。
第2部|診断士視点で見た経営戦略的考察
ここからは、紙面では十分に書けなかった、診断士としての視点になります。
最低賃金1,000円時代という言葉が先行しがちですが、私自身は、この問題を「最低賃金そのものが原因だ」とは捉えていません。
最低賃金は、あくまできっかけであり、もっと言えば警告灯のような存在です。
本当に問われているのは、
- 人件費をどう設計しているのか
- 時間がどのように使われているのか
- その結果として、1時間あたりの価値がいくら生まれているのか
という、経営の構造そのものです。
最低賃金が上がったから苦しくなったのではありません。
最低賃金が上がったことで、これまで見えにくかった歪みが、数値として表に出てきたのです。
たとえば、
- 業務内容と賃金が結びついていない
- 役割や責任の違いが給与に反映されていない
- 「忙しい」ことと「価値を生んでいる」ことが混同されている
こうした状態が続いていると、賃金水準が少し変わっただけで、経営は一気に不安定になります。
ここで重要なのは、最低賃金を「外から押し付けられた負担」と見るか、
それとも「自社の構造を点検する材料」と見るか、という姿勢の違いです。
診断士の立場から見ると、給与制度は単なる人事制度ではありません。
給与制度は、その会社が何を大切にし、何に価値を置いているのかを映し出す鏡です。
時間をどう評価しているのか。
成果と報酬をどう結びつけているのか。
人をコストとして見ているのか、投資対象として見ているのか。
これらは、制度の細部に必ず表れます。
最低賃金が上がるたびに、その場しのぎで対応を重ねていく企業と、
この機会を使って、
- 「人件費とは何か」
- 「時間の価値とは何か」
を根本から見直す企業とでは、数年後の姿は大きく変わります。
だからこそ、このテーマの本質は「最低賃金対策」ではありません。
人件費・時間・価値を、経営としてどう設計し直すか。
最低賃金1,000円時代は、その問いから逃げられない段階に入ったことを示しているのだと考えています。
「人件費をどう払うか」ではなく「どう回収するか」
最低賃金の引き上げが議論されると、多くの企業ではまず、
「人件費がいくら増えるのか」
「どこまで耐えられるのか」
という話から始まります。
しかし、診断士として現場を見ていると、この問いの立て方自体が、すでに経営を苦しくしていると感じる場面が少なくありません。
本来、考えるべきなのは、
「人件費をどう払うか」ではなく、「その人件費をどう回収するか」です。
第一歩となるのが、時間単価の見える化です。
月給や年収ではなく、
「この人に、1時間あたりいくら支払っているのか」
を可視化すると、これまで感覚的に語られていた問題が、数字として浮かび上がります。
さらに、職種別・工程別に時間単価と成果を並べてみると、
- 時間がかかりすぎている業務
- 価値を生んでいない作業
- 属人化している工程
が、はっきりと見えてきます。
ここから先は、賃金の話ではなく、業務設計の話です。
どの業務を自動化できるのか。
どこを標準化すれば、同じ成果をより短時間で出せるのか。
誰が判断し、誰が実行するのか――役割は適切に分かれているか。
こうした再設計によって、1人あたりの生産性がわずかに上がるだけでも、経営への影響は大きく変わります。
仮に1時間あたりの価値を1.1倍にできれば、最低賃金が1,100円になっても、人件費率は維持できます。
ここで重要なのは、「時給を上げる」ことではなく、1時間の中身を変えるという発想です。
最低賃金の上昇は、確かにコスト増を伴います。
しかし同時に、それは
「自社の時間は、本当に価値を生んでいるか」
を問い直す機会でもあります。
最低賃金を、避けられない負担として受け止めるのか。
それとも、業務を見直し、生産性を高めるための改善の起点として活かすのか。
この選択が、その後の経営を「守り」にするか、「攻め」にするかを大きく分けていきます。
給与制度は、人材育成と一体で設計する
最低賃金への対応という文脈で語られがちな給与制度ですが、診断士として現場を見ていると、ここにはもう一つ、重要な視点が欠けていると感じます。
それは、給与制度が人材育成と切り離されて扱われているという点です。
本来、給与制度は「支払うための仕組み」ではなく、
人がどう成長し、どんな役割を担っていくのかを示す経営装置であるはずです。
そのための一つの考え方が、職務給や役割給です。
これは単に賃金を細分化することが目的ではありません。
「どの仕事に、どの責任があり、その責任にいくらの価値を置いているのか」
を明確にするための仕組みです。
一方で、最低賃金対応としてよく取られるのが、一律の昇給です。
確かに短期的には分かりやすく、不満も出にくい方法ですが、
その結果、固定費が膨らみ、次の賃上げ局面で再び同じ悩みを抱えるケースも少なくありません。
ここで必要なのは、「全員を同じように上げる」発想から、責任と報酬を結び直す設計へと視点を切り替えることです。
たとえば、
- 現場をまとめる役割
- 判断や調整を担う役割
- 後輩を育成する役割
こうした役割に対して、明確な手当や評価を設けることで、
単なる賃金調整ではなく、成長の道筋を示す制度になります。
重要なのは、給与制度を「結果に対するご褒美」にしないことです。
どんな役割を期待しているのか、どんな行動を評価するのかを先に示し、
その延長線上に報酬がある――
この順番で設計されている組織では、人は自然と育っていきます。
最低賃金1,000円時代は、
「人をどう雇うか」ではなく、「人が育つ構造をどう作るか」
が問われる時代でもあります。
給与制度を、単なるコスト管理の道具として終わらせるのか。
それとも、人材育成と経営戦略をつなぐ装置として使いこなすのか。
その違いが、数年後の組織の力を大きく左右していきます。
現場の違和感を「次の一手」に変えるために
今回お伝えした最低賃金の問題は、氷山の一角に過ぎません。経営の現場では日々、人件費、固定費、採用、そして組織の硬直化といった、正解のない問いが次々と生まれています。
こうした「言葉にならない違和感」を放置せず、経営の構造から見直して具体的な解決策へと導くための指針を、「経営の1ページ 〜次の一手へと変える処方箋〜」としてまとめました。
本ページで扱った賃金設計の考え方はもちろん、経営の自由度を取り戻すための「判断の型」を1ページずつ濃密に整理しています。いま、あなたの会社が直面している課題を解き明かす一助として、ぜひご活用ください。
まとめ|最低賃金1,000円時代をどう迎えるか
最低賃金は「守り」ではなく「攻め」のテーマ
最低賃金1,000円時代という言葉には、どうしても「負担」や「リスク」といった響きがつきまといます。
しかし、ここまで整理してきた通り、このテーマの本質は、単なるコスト増ではありません。
最低賃金への向き合い方は、その企業が人件費をどう捉えているか、
ひいては経営として何を大切にしているかをそのまま映し出します。
変化に直面したとき、
- 人件費を削ることで乗り切ろうとする会社
- 人に投資し、構造を見直すことで前に進もうとする会社
最低賃金1,000円時代は、その分岐点を、これまで以上にはっきりと示しています。
最低賃金への対応は、義務でも、後ろ向きな調整でもありません。
それは、
- 人件費の設計
- 時間の使い方
- 役割と報酬の結びつけ方
を見直すための、経営の再設計スイッチです。
恐れる必要はありません。
問われているのは、「どこまで払えるか」ではなく、
その賃金に見合う価値をどう生み出す構造を作るかという設計力です。
最低賃金が上がる時代だからこそ、
時間の価値を見直し、人が育つ仕組みを整え、
持続的に回る経営へと進化する余地があります。
ここにこそ、診断士の役割があります。
制度をなぞるのではなく、
現場で起きている違和感を起点に、経営の構造を読み解き、再設計する。
最低賃金1,000円時代は、その力が真正面から求められる時代だと言えるでしょう。
変化は、脅威にも、チャンスにもなります。
その分かれ道に立った今、最低賃金を「守りの負担」で終わらせるのか、
「攻めに転じるきっかけ」にできるのか。
答えは、経営の設計の中にあります。
